藤井祐治 先生

暑中お見舞い申し上げます。

世界を震撼させた新型コロナウィルスの恐怖が終わらないうちに第2波の発生が懸念される昨今です。新型コロナの蔓延で人間はだれもがいかに先の予測のつかない不確実な世の中に生きている弱い生き物であることを思い知らされました。

さて今年の厚狭高校同窓会の当番幹事の皆さんは大変なご苦労をなさっていることと拝察します。お会いできる事を楽しみにしていた級友も本当にがっかりでしょう。私はこの手記をしたためるに当たり、29年前の卒業アルバムを開いています。

青春真っ只中の皆さんと共に学んだ3年間が走馬灯のように私の脳裏を駆け巡ります。「あんなこともあった。こんなこともあった。皆はいまどうしているのだろう。」皆に無性に会いたい。だけどそれが出来ない理不尽さを思う日々です。

私は後期高齢者に仲間入りしましたが時々近くの中学校で生徒と卓球を楽しんでいます。今年はコロナであまりできなかった。

同級性の皆さんのご多幸とますますのご活躍を祈念いたします。
終わりになりましたが幹事長内藤 勲君をはじめ役員の皆様のご苦労に感謝申し上げ挨拶とします。

有田(旧姓 西本)敦子 先生

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、今年度の山口県立厚狭高等学校同窓会総会・懇親会が中止となりましたことは、同窓生の皆様におかれましては、致し方ないこととはいえ、大変残念に思われていることでしょう。このコロナ感染が早く収束し、人々が安心して集える日が来ることを願うばかりです。

 私は、昭和61年4月から平成3年3月までの5年間、そして平成21年4月から平成25年3月までの4年間、計9年間を、北校舎の英語科教員として勤務させていただきました。同じ学校を2回勤務するのはあまりないことです。厚狭高校の皆様とは本当に御縁が深いと思っております。生徒の皆さんだけでなく、同僚の先生方、保護者の皆様など多くの人たちには大変お世話になり、深く感謝しております。

今回、今年度の当番幹事(平成3年卒業生の皆様)から寄稿の依頼があり、当番幹事の皆様の学年は、教員になって初めて3年間担任をした、私にとっては記念すべき学年なので、寄稿させていただくことにしました。

覚束ない記憶を頼りに書きますので、事実とは異なっているかもしれません。ご容赦ください。

【30年前】

 県内で最も長い歴史を持つ学校の一つであることや、南北校舎に分かれていることなど、ほとんど何も知らずに厚狭高校に赴任した私は、当時はまだ20代後半でした。そんなぼんやりした私を、先輩の先生方は大変温かく見守り、フォローしてくださいました。凛とした素敵な女性の先生方も多くおられ、憧れました。初めてのクラス担任も、生徒たちの頑張りと周りの先生方の支えで何とか全う出来ました。

一番思い出深いのは文化祭です。平成元年度(当番幹事2年生)の文化祭で、「大きいものを作ろう!」という私の提案をクラスの皆が受け止めてくれ、折り鶴を使った壁画を作ることになりました。

出来上がるまでは学園ドラマさながらでした。次から次へ難問が噴出。「図案は何にするか」から始まり、鶴は何色を何羽折るのか、何でつなぐか、どこから吊り下げるか、どうやって固定するか等々。しかし、誰かが解決策を考え出したり、先生方からお知恵をいただいたりして解決。2万羽の鶴を折り、テグスでつなぎ、校舎の屋上から吊り下げて垂木で固定し、巨大「金魚」を浮かび上がらせました。文化祭の朝、開始時間ギリギリの完成でした。新聞記事になり、町(当時は厚狭郡山陽町)の広報誌にも取り上げられました。作成過程では自分の都合を優先する生徒もいたりして、人間関係がぎくしゃくする場面も。でも、最後は皆がお互いを認め合い、完成した喜びと達成感を味わいながらジュースで乾杯しました。更に、このクラスは巨大壁画を作っただけでなく、当時大流行していたMr.マリックの超魔術をもじったマジックショーも当日敢行。絶妙なキャラクターのS君がいたおかげでした。大盛況でした。文化祭で2つの出し物をやり遂げたのは、私が担任したクラスの中では、後にも先にもこのクラスだけです。

きっかけを与えたのは担任でしたが、そのあとは生徒だけで話し合い、協力し合ってどんどん物事を進めていきました。私が予想していた以上に生徒は目覚ましい成長をしていったのでした。教室での座学では得られない力を行事を通して生徒たちは身につけていくのだと学びました。3年時はクラスの食品バザーだけでなく、有志でジュースの自販機の紙コップを使って、五重の塔も完成させましたね。ごみ問題を訴えるためでした。バイタリティーがありましたね。

 この文化祭の体験は、その後の私の教員生活の支えとなりました。

 他にもいろんなことが思い出されます。この厚狭高校での5年間は、教員としての私の「青春時代」でした。

【2回目の勤務】

 再び厚狭高校に赴任した時には、新校舎が建設中で、1回目の勤務時より格段に忙しくなっていました。多くの先生方が楽しんでいたテニスの「デベソカップ」もなくなっていました。

一番印象に残っていることは、平成22年の総合家庭科の北校舎移転です。それまで全日制は南北2校舎に分かれていたのが、北校舎に統合されるという厚狭高校の大きな変化に立ち会いました。この統合のため、学校行事の時期や運営方法を見直さなければならなくなり、大変でした。例えば、修学旅行。総合家庭科は染色家の工房見学、普通科は大学見学と別行動を強いられたりしました。文化祭の開催時期を普通科に合わせると総合家庭科は準備が不足するので、学習成果発表会として11月にファッションショーなどが行われました。家

庭科の先生方の細やかな指導とそれに応える生徒たちの熱心さに感動しました。美味しいコース料理もいただきました。

文化祭では、食品バザーで「Areeta!(アリータ)」という店名で唐揚げを売ったり、爪楊枝を使った点描画を作ったりしましたね。部活動は男子ソフトテニス部の担当でした。懐かしいです。個人的なことでは、渡り廊下で転んで左手中指を骨折するということもありました(人生初の骨折)。

【近況】

去年の誕生日に60歳となり、今春、定年退職しました。教職からは離れ、今は家事をするだけの毎日です。新型コロナウイルス感染拡大に伴い外出を自粛するように言われましたが、緊急事態宣言解除後も基本的にはずっと巣ごもり生活を続けています。そんな中、家庭菜園を始めました。キュウリやミニトマト、インゲン豆など、少しばかり植えています。初心者なのでうろたえることばかりです。雑草は野菜が見えなくなるほど生い茂り、虫は野菜につき放題。変色した葉もあり、病気にもかかっているみたい(涙)。わずかばかりの実はカラスと収穫を争う有様。今のところ連戦連敗、カラスに食べられてばかりです(泣)。しかし、こちらが期待するような大きさや数でなくとも、芽を出し、時期がきたら花を咲かせ実をつける野菜の逞しさや健気さに励まされています。何より、自分が育てたものを収穫し食べることの喜びは格別です。雑草や虫のいる中で過ごす時間は、教員として働いていた時とは全く異なる速さで過ぎ、のんびりと過ごしています。

 長く教員をしている間に、親子二代を教えるという御縁もありました。(三組ありました。いずれも、当番幹事の学年の「母と娘」)感慨深いものがあり、お子さんの方を教えている時は、恥ずかしいような申し訳ないような気持ちがしていました。

厚狭高校で勤務した9年間は、私の力不足のために迷惑をかけたことも多かったと思います。本当に多くの方々のお陰で何とか無事に過ごせたと深く感謝しています。有難うございました。

最後になりましたが、当番幹事の皆様に感謝し、併せて厚狭高等学校及び同窓会の皆様のますますのご発展を祈念いたします。

藤村 馨 先生

藤村 馨(1978~1997在籍)  1978に厚狭高校北校舎へ赴任。進路指導が専門である私の公務分掌が保健体育部でしたので驚きました。実は、前年度に「心身の健康の増進」のテーマで山口県教育委員会から研究指定を受け研究発表をする年でした。保健体育の授業の研究、業間体操の発明と実践、サアキットコースの設置、ロングホームルームで使う「心身の健康の推進」の教案の作成と研究授業の実施等。藤井、浜岡先生を推進役にして頑張りました.

  1979年夏の甲子園大会出場への山口県予選リーグで、M投手や永田京介(卒業後に長年にわたりコーチ・監督を担い 高野連表彰受賞)の活躍でベストフォーに進んだ。そときの校長森永諭吉氏が甲子園に出場するための募金活動の準備をするよう指示を出しました。

 1989~1990の2カ年つまり、今年度の同窓会総会の当番幹事達の在学中に、文部省から「普通科での勤労体験学習のやり方」の研究指定を受けました。

年度初めの職員会議の冒頭に、赴任したばかりのS校長から研究指定を受諾したのでよろしくお願いしますで、北校舎の教員はみなびっくりでした。

上級学校への進学を目指す生徒たちの学力の向上の妨げにならないような勤労体験学習の在り方を念頭に、夏休み前までに研究のレジメを作成しました。

あらたに分掌を作らずに、既存のもので担当することにしました。教務部は放課後30分、校内清掃と同時に植樹地の開墾と緑化作業…1980に伐採された門前の老松の代わりに欅を、校舎の前庭と運動場周辺にツツジやサツキを植えました。進路部は土曜日の放課後に徒歩で学校林の整備。生徒部は生徒の自主自律の精神を醸成する意味で、ボランティア活動でできることを考えました。生徒会会長のT君と環境美化委員会の委員長M君(現市会議員)の尽力のお陰で、「生徒・教員が日頃お世話になっている地域社会に恩返しをする」ことを目的として、「クリーンキャンペーン」を土曜日の放課後に行うことを決めました。「クリキャン」を合言葉に通学路およびJR厚狭駅駐輪場,物見山周辺,校内マラソンコース、河川海岸清掃大会等へ39~174の生徒が自発的に参加してくれました。1990年には、厚狭郡山陽町の第6回環境衛生大会にて表彰を受け、「地域社会との連携を求めての地域クリーンキャンペーン」をテーマに体験発表を行いました。君たち生徒の協力のお陰で、普通科高等学校での勤労体験学習のやり方についての研究収録を完成し文部省と山口県教育委員へ提出することができました。それ以来,30年経過した2020年の今、高校時代に勤労体験学習で習得したものが、はたして君たちが人生を送るうえで,少しでも役立ったことがあったか否かを是非とも知りたいです。「教育は百年の計」を確認してみたいからです。

 私は、1934年9月生まれで85歳です。教員生活38年、北校舎在籍20年、長期海外研修3回と忌引き以外に授業に穴をあけたことは1日もありませんでした。ちなみに、1979年米国から成田へ、夜行列車で朝、厚狭駅へ、重い旅行鞄を抱えて出校し授業を行いました。丈夫な体に生んでくれた両親に感謝しています。

 目下、心身のフレイル化を予防するために、以下のようなことをやっています。

火・木・土 8:30~10:30グランドゴルフを梶返天満宮の境内で18人の仲間と,水 12:30~14:30 シルバーコーラスきらめき会75人とコーラスを、今年は新型コロナウィルス対策で7月8日のスタートとなりました。従って例年の発表会は中止になりました。昨年は宇部市芸術祭市民音楽祭合唱部門 渡辺翁記念会館で「パプリカ」「麦の唄」混声4部を暗譜で発表しました。暗譜は脳の老化防止に役立ちます。最後に、昨年9月に始まった「宇部市はつらつ健幸ポイント」に参加しています。がん検診等の受診ポイント、健康教室への参加ポイント、毎日の歩数ポイント等で7月10日までに7994ポイント(1ポイント1円)を獲得しています。正に、「継続は力なり」であると思います。

尾崎泰彦 先生

尾崎泰彦先生

皆さん、ご無沙汰しております。お元気ですか。

この度は、同窓会総会についてのご連絡ありがとうございました。当番幹事の方におかれましては、これまでの準備大変だったと思います。ご苦労様でした。来年度に、懇親会でお会いできることを楽しみにしております。

私は、昭和62年4月から、平成4年3月までの5年間、厚狭高校に勤務していました。大学を卒業して、初めて勤務した高校であり、当時は20歳台でしたが、早いもので、あと数年で定年です。楽しいことや、失敗したことなど、当時の事はよく覚えています。皆さんの名前も、ほとんど覚えています。今では、生徒の名前がなかなか覚えられないのに、不思議です。

私が担任した皆さんは、48歳になったようで、様々な職種で、ご活躍のことと思います。そんな、皆さんに、おこがましいのですが、私がいつも思っていることを記載します。

実社会で生き抜いていくために、私が一番必要だと思うもの、・・・それは「一生懸命やろうとする気持ち」です。今できることに全力を尽くす。必ず自分の力になります。いい加減にやっていれば、自分の身につきません。一生懸命は、周囲の人たちに必ず伝わります。そして、この人には、見込みがあると思ってもらえます。応援してくれます。一生懸命には、相手の心を動かす力があります。

どんなに頑張ってもうまくいかず大きな壁にぶつかり、思い通りにならないことも多々あるでしょう。

一息ついた時、立ち止まった時、困難にぶつかった時、・・・。そんなときは、母校に、ふるさとに思いを寄せて下さい。校舎やグラウンド、友人との語らい、周りの人々のあたたかさ。母校は、そしてふるさとはいつまでも皆さんをあたたかく見守り続けてくれることでしょう。

新型コロナウイルスが収束した際には、またお会いしたいと思っています。お体にくれぐれもお気をつけください。