きっかけ。
オイラが今、「内弁士ごくう」という芸名で吉本のお笑いライブの舞台に立っている経緯は…
どうも、ないべんです。
知る人ぞ知る、知らない人は全く存じ上げない普通科の内藤勲です。ご無沙汰しております。
思いも新たに厚狭高等学校へ入学したオイラは、色々諸々の事情を経たうえ、文化祭での役回り、生徒会長への就任、南校舎の1つ下の学年に「なっちゃん軍団」と呼ばれる5人からなるファンクラブがあったという蜃気楼を糧に、芸人になりたいという勘違いを抱き始めました。
厚狭高を卒業後の26年前の大学時代、いや、間をとってと思い直し、フジテレビへ就職試験を受けに行きました。未だに独身のオイラが「フジテレビと結婚しますっ!!」と狂喜乱舞した面接は大失敗に終わり、局内の有名な蕎麦屋で途方に暮れておりました。思い出にしようと自分に言い聞かせ、蕎麦屋を出ると、向かいの局内の本屋にテレビで見た事のある人物が。その人物こそ、去年大いに話題を振り撒いた現在の吉本興業社長である岡本社長でございます。当時の岡本さんはダウンタウンさんのマネージャーさんでありました。気付いたら岡本さんへ「お願いします」と頭を下げている自分がそこに居ました。さっき「結婚します」で失敗したばかりなのに、いや、挽回を試みたのか、その衝動に突き動かされた瞬間は覚えておりませんが、人生で1番素直に純粋になった1歩踏み出した瞬間だったのかもしれません。その時、岡本さんから名刺を頂きました、「なんかあったら連絡頂戴」。
厚狭に戻ったオイラの心は1つでした。その思いをしたためながら、上京費用を貯めなきゃと働いたのが宇部新川のパブ「HeartBeats」でした。当時好きだった再放送の堺正章さんの「西遊記」より、夏目雅子さんに呼ばれる気持ちを味わいたく「ごくう」を源氏名として頂戴しました。世に出た時に地元のみんながわかりやすいよう、あだ名と源氏名を合わせて「内弁士ごくう」を芸名にしましたが、今となっては、ぶちいらん心配でした。お店を辞める時に「やめないでぇ~」と泣きじゃくっていた若き女性達よ、何処へ…
翌年その名刺を頼りに上京したオイラは岡本さんと再会、「このライブで頑張ってみな」と、当時の渋谷公園通り劇場のdebesoというライブに導かれていきました。その後、東京NSC2期に入り直し、卒業後、ライブ活動を中心とした芸人でございます。無名中の無名でございます。
当然、芸人だけの稼ぎでは食べていけなく、バイトは常に付いてきますが、この4月になんの拍子か、前々から働いておりました銀行において正行員になりました。ここへきて人生初めての就職です。行員でありながら芸人ができるのは、芸人仕事量が軽微なオイラしかいないはずです…
厳しい芸人の世界を身に染みて感じておりますが、後輩にどんどん追い抜かれ、芸歴だけが積み重ねられ、びた一文売れる気配はございませんが、やりたいんよねぇ。スベるリスクばかりの中、たまに得られる大爆笑の感触は、この世で1番心地いいものですけぇ。
現状に満足は当たり前にしておりませんが、オイラにしかできない経験を楽しんでおります。だからオイラは岡本社長に頭が上がりません、今のオイラがあるのは岡本社長のおかげです。もしあの時、岡本社長に会っていなければ、地元で働き、そこそこ出世させて頂き、嫁をもらい、子供達ができて、素敵な家庭を築いてしまっていたかもしれないんです。危ない危ない…
あの時、岡本社長に会ったおかげで、今となっては、(「売れない」が)安定した芸人です。
誰がめっぽう遅すぎるけど目を覚ませかっちゃ。