内藤 勲(内弁士ごくう)さん(普通科卒)

きっかけ。

オイラが今、「内弁士ごくう」という芸名で吉本のお笑いライブの舞台に立っている経緯は…

どうも、ないべんです。

知る人ぞ知る、知らない人は全く存じ上げない普通科の内藤勲です。ご無沙汰しております。

思いも新たに厚狭高等学校へ入学したオイラは、色々諸々の事情を経たうえ、文化祭での役回り、生徒会長への就任、南校舎の1つ下の学年に「なっちゃん軍団」と呼ばれる5人からなるファンクラブがあったという蜃気楼を糧に、芸人になりたいという勘違いを抱き始めました。

厚狭高を卒業後の26年前の大学時代、いや、間をとってと思い直し、フジテレビへ就職試験を受けに行きました。未だに独身のオイラが「フジテレビと結婚しますっ!!」と狂喜乱舞した面接は大失敗に終わり、局内の有名な蕎麦屋で途方に暮れておりました。思い出にしようと自分に言い聞かせ、蕎麦屋を出ると、向かいの局内の本屋にテレビで見た事のある人物が。その人物こそ、去年大いに話題を振り撒いた現在の吉本興業社長である岡本社長でございます。当時の岡本さんはダウンタウンさんのマネージャーさんでありました。気付いたら岡本さんへ「お願いします」と頭を下げている自分がそこに居ました。さっき「結婚します」で失敗したばかりなのに、いや、挽回を試みたのか、その衝動に突き動かされた瞬間は覚えておりませんが、人生で1番素直に純粋になった1歩踏み出した瞬間だったのかもしれません。その時、岡本さんから名刺を頂きました、「なんかあったら連絡頂戴」。

厚狭に戻ったオイラの心は1つでした。その思いをしたためながら、上京費用を貯めなきゃと働いたのが宇部新川のパブ「HeartBeats」でした。当時好きだった再放送の堺正章さんの「西遊記」より、夏目雅子さんに呼ばれる気持ちを味わいたく「ごくう」を源氏名として頂戴しました。世に出た時に地元のみんながわかりやすいよう、あだ名と源氏名を合わせて「内弁士ごくう」を芸名にしましたが、今となっては、ぶちいらん心配でした。お店を辞める時に「やめないでぇ~」と泣きじゃくっていた若き女性達よ、何処へ…

翌年その名刺を頼りに上京したオイラは岡本さんと再会、「このライブで頑張ってみな」と、当時の渋谷公園通り劇場のdebesoというライブに導かれていきました。その後、東京NSC2期に入り直し、卒業後、ライブ活動を中心とした芸人でございます。無名中の無名でございます。

当然、芸人だけの稼ぎでは食べていけなく、バイトは常に付いてきますが、この4月になんの拍子か、前々から働いておりました銀行において正行員になりました。ここへきて人生初めての就職です。行員でありながら芸人ができるのは、芸人仕事量が軽微なオイラしかいないはずです…

厳しい芸人の世界を身に染みて感じておりますが、後輩にどんどん追い抜かれ、芸歴だけが積み重ねられ、びた一文売れる気配はございませんが、やりたいんよねぇ。スベるリスクばかりの中、たまに得られる大爆笑の感触は、この世で1番心地いいものですけぇ。

現状に満足は当たり前にしておりませんが、オイラにしかできない経験を楽しんでおります。だからオイラは岡本社長に頭が上がりません、今のオイラがあるのは岡本社長のおかげです。もしあの時、岡本社長に会っていなければ、地元で働き、そこそこ出世させて頂き、嫁をもらい、子供達ができて、素敵な家庭を築いてしまっていたかもしれないんです。危ない危ない…

あの時、岡本社長に会ったおかげで、今となっては、(「売れない」が)安定した芸人です。

誰がめっぽう遅すぎるけど目を覚ませかっちゃ。

前田真宏さん(普通科卒)

平成3年3月に厚狭高普通科を卒業した前田真宏です。

30年近く経ち、両親も山口を離れてしまったため、多くの方々にご無沙汰してしまい、申し訳ありません。

厚狭高での思い出は本当にたくさんあります。文化祭、体育祭、スキーをした修学旅行、何気ない昼休み、そして何より野球部でのこと。3年生の夏の大会も勝つことはできませんでした。決して強くなかった私たちの試合を多くの方々がスタンドに応援に来てくれました。暑い中、声をからし、体を動かし、スタンドが元気すぎて、試合中に審判に「ちょっと注意してきて」と言われたのも、本当に良い「仲間」がいたのだと誇りに思います。

高校3年生の夏に偏差値が「35」しかなかった私は自分なりの猛勉強で福岡県の大学に進学しましたが、2カ月で退学を決意し、厚狭に戻りました。さらなるシフトチェンジの猛勉強で、なんとか日本大学法学部に合格し、小学生の頃からの「アナウンサーになる」という夢を持って、東京へと向かいました。

大学時代は生活のためのアルバイトもたくさんする中、Jリーグ創世記の浦和レッズでも働きました。野球部だった私はオフサイドのルールも知らなかったのですが、ここで初めて本格的にサッカーに出会います。ちなみに、福岡での試合の際は厚狭高の同級生にも手伝ってもらいました。

4年生になり、就職活動がスタート。当時は1万人が受験するとも言われた東京のキー局はほとんど書類落ち、アナウンサー受験全国行脚です。おそらく30社ぐらい落ちたでしょうか。就職浪人を覚悟したところで、山梨放送(KRYと同じ日本テレビ系列)に合格。本当に覚悟していました。なぜなら正式に決まったのは2月。卒業式まで1か月です。

山梨にはJリーグ入りを目指すヴァンフォーレ甲府というチームがありました。ところが、J2(現在、レノファ山口も所属する)リーグがスタートすると、3年連続最下位。債務超過で倒産寸前。記者席には私一人、お客さんが615人という時もありました。それでも、偏差値35だったり、誰よりも遅くまで就職活動をした自分にその姿を重ねたのかはわかりませんが、かかさず試合を見に行き、選手を自分のラジオ番組に呼んだり、テレビで試合の話をしたり、誰よりも寄り添ったように思います。あんなに弱かった私たちの野球部を内野席いっぱいにして、必死に応援してくれた厚狭高の仲間たちのように、きっと、このチームを応援してれる人たちはいるんだと信じていました。すると、2005年、J2で3位となり、柏レイソルとの入替戦に進出。山梨放送で中継した第2戦の視聴率は51.1%。もちろん、私は現場に。勝利に喜びを爆発させる選手、サポーター。幸せな瞬間でした。祝賀パレードには1万人の県民が集まりました。おかげさまで、翌年からは憧れのJ1の試合をアナウンサーとして、数えきれないほど実況させてもらいました。また、その経験もあり、高校サッカーの全国大会でも旧国立競技場での開幕戦など、多くの試合を実況しました。

16年間のアナウンサー生活の後、異動でスポーツ部へ。実は、旧国立競技場で最後に行われたJリーグの試合はヴァンフォーレ甲府と浦和レッズの一戦でした。その試合のスカパー中継(甲府ホームゲームの制作を山梨放送が担当)のプロデューサーをさせてもらい

ました。不思議な縁です。私にサッカーを教えてくれた浦和レッズ、成長させてくれたヴァンフォーレ甲府、思い出の旧国立競技場。こだわった演出は試合後に聖火台の火を消すというものです。係員の方に「10秒かけて消してください」と無理なお願いをしました。ちなみに、ご家庭のガスレンジと同じ方式なので、本当は一瞬で消えます(笑)。1993年にヴェルディ川崎対横浜マリノスの一戦でJリーグが開幕したこの国立競技場の火をゆっくりと消したかったのです。それを皆さんにお見せしたかったのです。

その後、3年間、単身赴任で東京支社勤務し、現在はテレビ編成部という部署にいます。最近はジョギングと料理、あとは息子と一緒にスタンドからヴァンフォーレ甲府の試合を観戦するのが趣味です。

2020年の厚狭高同窓会は残念ながら、中止となりました。遠くにいる私は何も手伝えませんでしたが、幹事の「仲間」たちは一所懸命に準備をしてくれました。新国立競技場でオリンピックも開催されませんでしたが、きっと、2021年、新しい環境の中で華やかに開催されることでしょう。厚狭高同窓会も、きっと、「仲間」である後輩たちが立派に開催してくれることと思います(無理はしないでね)。こんなウイルスなんかで、厚狭高同窓会の火が消えることはありません。10秒はもちろん、10年かけたって、100年かけたって、きっと消えることはないでしょう。

皆さまにお会いできる日を楽しみにしています。どうか、それまで、お元気で。

ありがとうございました。

田中裕一さん(普通科卒)

厚狭高を卒業して、既に30年近く。
「光陰矢のごとし」とは、当時も言っていましが、今は何億光年も離れてしまった昔の気がします。
みんな一緒に、本当にいい年齢になりました。

20余年前、東京から帰って萩に就職。つれづれなるままに、厚狭との接点を思い出してみます。

平成22年(2010年)、水害の際に、受験でお世話になった図書館付近で、床上浸水となった家屋に入り、ドロンコになって土砂を搬出したのが、厚狭とのご縁の復活でした。

その後、職場仲間でマラソン、駅伝に出場するのが流行り、美祢市厚保の実家に帰る度、当時は自転車で通った約8キロの通学路をジョギングで走るようになり、そのたびに厚狭の街並みを眺められるようになりました。

ランニングの時は、鴨ノ庄、厚狭駅前、加藤の交差点、丸久、鴨神社・・・街並みは、少しずつ変わっていても、骨組みは昔と同じで、懐かしむことができ、若返り?の元気をもらえるのが楽しみです。

今は、各地域とも、オリジナルの素晴らしさを発見して、プラスのパワー、誇りとしてまちをおこす時代。
厚狭の場合はどうだろうかと考えたとき、思い浮かぶのは、やはり寝太郎さんです。

無理に働かず、休むときは大いに休み、一攫千金、人助け、まちおこし・・・働き方改革にも叶い、今からの時代の手本になり、夢も与えてくれる物語です。
是非、寝太郎さんのまち、厚狭が、日本を元気にするまちに、なってほしいな、と思いつつ、自分もこれからは、寝太郎根性で生きていくぞ、と走っています。

眞鍋(旧姓 篠田) 京子さん(家政科卒)

家政科を卒業し、私は、宇部短期大学(現:宇部フロンティア大学短期大学部)の保育学科に進学し、山陽小野田市の公立保育園で働いています。(山陽小野田市を離れることなく、ず~っと)教え子が、子どもを産み、親となって保育園に連れてくる・・・。私も年を取ったなぁと、感じるこの頃です。同級生が、孫を連れてくることも!!

小5の娘が、『大きくなったら、保育士になりたい』と、去年からピアノを習いだしました。娘の目から見て、私の仕事が楽しそうに見えるなら、仲間とワイワイ言いながら楽しく働いているからかなぁ。

長年、山陽小野田市に住んでいても、ばったりと同級生と会うことはほとんどなく、同窓会にも参加したことがありませんでした。今年度、同窓会幹事の年ということで、去年初めて同窓会に参加し、今年の同窓会引き受けに向けて、微力ながらお手伝いをすることになりました。私は南校だったので、北高の方とは、『はじめまして』の方もいらっしゃいましたが、同級生というだけで、なぜか勝手に知り合いのように話せるのは図太い神経の私だけでしょうか・・・。新型コロナウィルス感染拡大防止に伴い、今年度の同窓会開催が出来なくなってしまいましたが、準備を進める間にまた新しいつながりができた事は、私にとってよい経験だったなと思います。

今回、同級生の寄稿をお願いするのに、年賀状でしかつながってなかった友だちに、勇気を出して、携帯に残っていた電話番号にSNSで連絡を取ってみました。すると、なんと「え?しの?久し振り~」と、連絡が返ってきました。どうにかLineにまでこぎつけ、連絡が取れるようになりました。とても、久し振りなのに、まるで、高校の時に戻ったかのように普通に話は弾み、コロナのことさえなかったら、「久しぶりに会いたいね~」なんてなるのに・・・。高校の頃のことを思い出す機会は、ほとんどなかったのに、いろいろな人に連絡を取りながら、こんなこともあったなぁと思い出すこともありました。

高校の時の思い出と言えば、お好み焼き。クラブの帰り道、よく食べて帰っていました。店の前を通ると、懐かしいなぁと思いますが、行く機会がありません。あと、「じだんだ」という言葉を今も忘れられません。身体表現の授業で、本谷先生がおっしゃっていた言葉です。私たちが、ステップをしていると、「じだんだ踏まない。」と、よくおっしゃっていました。その頃は、聞きなれない言葉で、「じだんだ」という言葉がとても印象に残っています。結婚し、偶然、同じ自治会に住んでいたので、お会いする機会があり、懐かしく声をかけたものです。

寄稿をお願いした瓜生里江(旧姓栗原)ちゃんは、軟式テニスでペアを組んでいた友だちです。テニス部で、コーチをされていた倉ちゃん(当時60歳ぐらいのおじいちゃん)から、『60年の友』という話を聞き、60歳になっても、テニスをする友人がいると。そんな関係になるといいね~なんて言いながら・・・。私たちも、年をとってもいい友だちでいようねって話していました。(私は、この話を公務員試験の小論文の題が「友だちについて」だったので、書いた記憶があります)

短大が岡山だった里江ちゃんとは、すっかり疎遠になっていたのですが、今回の寄稿のことで連絡を取ることが出来たことは、ラッキーでした。また、60年の友になるつながりが出来たからです。

今年度は、同窓会を開催できず、参加を楽しみにされていた方も残念に思われたことでしょう。幹事の私たちも、開催に向けて同級生の良さを感じながら準備を進めてきただけに、残念でなりません。コロナに負けず、さらに絆を深め、これからも同窓生として関われていけるといいなと思います。

瓜生(旧姓 栗原)里江さん(家政科卒)

高校生活

高校時代は、部活で軟式テニス部に所属し、帰りにみんなでジュースを飲んだりお好み焼きを食べに行ったりして、おしゃべりしていたのが楽しい思い出です。

高校2~3年では、密かに担任の先生にあこがれていました。ツーショットの写真を撮るために友達と作戦を立て、成功して完璧な写真が撮れたときはうれしかったけど、今思えば、バカなことしてたな~!! 

高校は皆勤賞で、保健室を利用することはめったにない元気な私でしたが、保健委員をしたり、素敵な養護教諭との出会いがあったりで、養護教諭を目指すようになりました。

現在の仕事

小学校、高校勤務を経て、現在は特別支援学校の養護教諭をしています。

特別支援学校は、感染症により重症化するリスクの高い児童生徒が在籍しており、新型コロナ感染症の感染拡大により、校内での感染予防対策に追われている毎日です。感染症だけでなく、突発的なけがや発作で、子供たちが学校にいる間は気が抜けません。救急車も何度要請したことか・・・

それなりの勤務年数なので、いろいろな経験をさせてもらっています。中国地区学校保健会では、縁あって山口大会で実践発表しました。3人目妊娠中でつわりに耐えながらの発表でした!

また、学校に籍を置いたまま、広島県立教育センターに半年ほど研修にも行かせてもらいました。時間と課題に追われる半年間でしたが、一緒に研修した仲間たちと支え合いながら教育研究に取り組めたのは、貴重な経験でした。

養護教諭は学校に1名か2名の配置なので、他校の養護教諭とも情報交換したり、助け合ったり、仲良くしてもらっています。

同期で入った仲間たちも、それぞれ家庭を持ち、お互い忙しい中ですが、相談したり励まし合ったりしています。

私生活

結婚して広島県呉市に来て25年になります。

呉市は瀬戸内海に面し、造船や鉄鋼などを中心に栄え、豊かな自然に恵まれたくさんの特産物があります。(ここ数年は災害や製鉄所の閉鎖、新型コロナの感染拡大でいろいろと大変ですが。)

子供は3人で上2人は大学生、3番目は小学生です。小学生は週6で習い事があるので、送迎と自分の仕事と家事に追われる毎日ですが、休みの日は家族や友達と広島県内・呉市内で、遊びに行ったりおいしいものを食べに出かけたりしてリフレッシュしています。(今は、コロナの影響でずいぶん減りましたが・・・)

公私ともに忙しく、年々体が年老いているのをひしひしと感じますが、ぼちぼちやっていこうと思います。

終わりに

今回、この寄稿の話を受けたことで、テニス部で仲良かった「60年の友」と久しぶりに連絡が取れたこと、あこがれていた担任の先生が今も元気に活躍されていることもわかり、うれしかったです。新型コロナ感染症の収束にはまだまだ至らないと思われますが、皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

加藤智子さん(被服科卒)

はじめまして。
被服科を卒業しまして30年、絵描きをしています。
本来は、高校時代の事を書くべきでしょうが・・・いい思い出が・・・というか3歩歩くと忘れる性格に、老化という素晴らしい現象が加わり何も覚えていません。嫌味な先生の心えぐられる言葉さえ忘れてしまったのは、悔しいものです(笑)。
とにかく、小さい頃から絵描きになりたくて、今では『夢や願いは口に出して言えば叶う』と言われていますが、私は、内に秘めメラメラと『やってやる!』と思う、秘密主義でして・・・おっと、このままでは又長くなってしまうので掻い摘んで。

家庭科大嫌いな私が、デザインをしたく厚狭高校被服科に入学→当然居心地の悪さを感じる→中学の恩師に相談→美大へ行く勉強をする→紹介してもらった厳しい美大へ行くための講師に絞られる日々→母が体調を崩し家に残る事を決意→よって美大を諦め県内の芸術短大へ方向転換→結果それで良かった、それが良かった。
その短大で、本当に良い先生や友人に恵まれ、気の迷いで中退を考えた時にも先生は、「こんな面白い存在辞めさせるわけにいかない」と、首を縦に振らず説得の毎日。中退断念→気持ち切り替え短大を謳歌(卒業を控えた時には、その先生を始め他先生からも研究生として残る事を勧められる)→卒業制作最高!と褒められる。
卒業→結婚 不妊治療を8年、出来ず諦め→夫の理容室YELL(山陽小野田市有帆)の開店。

高校時代の勉強中の絵

同時に⇩

・犬達の度重なる老化介護
・祖父母の相次ぐ痴呆
・不景気で家業がピンチ
・母の病気
・叔母の癌発覚
・父の難病宣言(付き添いの病室で羊毛作家・アクセサリー作家をする)・・・・・

もうハチャメチャな20年がスタート!! 
家族での父の闘病生活が始まり父に付き添い病院に泊まり込む事5年。そのあと叔母の介護で、トータル6年病院に寝泊まり自宅介護の日々。

今回の寄稿文の話を頂き、書き出してみたらなんと原稿用紙8枚超えの超スペクタクル(意味わからん)な大作となってしまった・・・。そんな大作を読みたい方はご一報下さい、コピペメールをお送りしますから(笑)。

父と叔母が2014年旅立ち→社会から置いてけぼりの浦島太郎となった私→社会復帰の為仕事を探す→夫の説得で仕事に出る事を断念。それは、私が虚弱体質で職場に迷惑をかけるだろうし、叔母の遺言「あなたの絵が好きだからまた描いて」と病床で毎日言ってくれた事を受け夫に絵を描く事を勧められる→2015年暮れ1枚の絵を描く。

かくして
絵描きになりたいという夢を胸に秘めたかつての少女は、秘めに秘めて温め続け42歳(当時)という立派なおばさんとなって今から5年前。遅いながらも夢に向かいデビュー!→有難い事にすぐに個展のお誘いを頂く=その後次々とお話を頂き休む時間無く絵に携わらせてもらえ、東京・大阪・山口などで多数個展を開く。同時にグループ展は数知れず参加。海外からも展示のお誘いがあり、実際にパリ・ニューヨーク・香港などでグループ展にも参加。
猫の保護をしている我が家には、モデルはいっぱい。昔からずっと犬が居て捨てられた犬達の保護もしていました。

私は今、彼らの煌めく命を描いています。動物を描くのは私には極々自然。だってずっと側にいるんですから。

小さくても私達と同じ尊い命を、虐めたり軽んじないで、可愛い彼らと共に生きよう!
殺処分という言葉を無くそう!   そんな思いで描きまくり。

絵描きになるきっかけの絵

かといってそんな思いで見なくていいんです。
この子可愛いね
この絵面白いね
こんな子いるよね
こんな表情するよね
そんな気持ちで見てもらえたら、又笑顔になってもらえたらいい。

そしていつか家族に迎えたいね。とご家族で話す日があれば~どこかで人間に裏切られ怯えていたり、お腹を空かせていたり、寒さに震えていたり、暑さでぐったりしていたり・・・そんな子がいたらぜひ家族に迎えてあげてほしい。その日が来たら私の絵の役目があったというもの。

なんてカッコつけて書いてみましたが、好きな事(絵)と好きなもの(動物)を組み合わせただけなんだけどね。

何歳からでも、例え口に出さず胸に秘めた想いでも夢は叶わないとは、限らない。

変・変わっている・天然 など言われたくないが為に、ひた隠しにし周りに合わせていようと必死だった過去。私の変人さ(長く深い付き合いの人や感のいい人以外にはバレていないと思う)・変わった部分を武器にしてこれからも愛すべき動物達を、そしてこれからは人や他の物など視野を広く更に楽しく、時には苦しみながらも絵を描いて行きたいと思います。

はっきり言って私の話・文章など何の役にも立たないです、だって私は絵描きですから。
絵を見て笑って下さい。
元気を出して下さい。
癒されて下さい。
そしてその事で出来た心の余裕で、小さな命に優しさを与えて下さい。

長々と書いておいて申し訳ないのですが、結局最後の↑1行が何より私の言いたかった事。

取り留めのない話にお付き合い下さりありがとうございました。お近くで個展の際は、チラリとお立ち寄り下さいね。

皆様と皆様の大事な方々のこれからのご多幸を心よりお祈りしてここら辺にさせて頂きます。

藤井祐治 先生

暑中お見舞い申し上げます。

世界を震撼させた新型コロナウィルスの恐怖が終わらないうちに第2波の発生が懸念される昨今です。新型コロナの蔓延で人間はだれもがいかに先の予測のつかない不確実な世の中に生きている弱い生き物であることを思い知らされました。

さて今年の厚狭高校同窓会の当番幹事の皆さんは大変なご苦労をなさっていることと拝察します。お会いできる事を楽しみにしていた級友も本当にがっかりでしょう。私はこの手記をしたためるに当たり、29年前の卒業アルバムを開いています。

青春真っ只中の皆さんと共に学んだ3年間が走馬灯のように私の脳裏を駆け巡ります。「あんなこともあった。こんなこともあった。皆はいまどうしているのだろう。」皆に無性に会いたい。だけどそれが出来ない理不尽さを思う日々です。

私は後期高齢者に仲間入りしましたが時々近くの中学校で生徒と卓球を楽しんでいます。今年はコロナであまりできなかった。

同級性の皆さんのご多幸とますますのご活躍を祈念いたします。
終わりになりましたが幹事長内藤 勲君をはじめ役員の皆様のご苦労に感謝申し上げ挨拶とします。

有田(旧姓 西本)敦子 先生

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、今年度の山口県立厚狭高等学校同窓会総会・懇親会が中止となりましたことは、同窓生の皆様におかれましては、致し方ないこととはいえ、大変残念に思われていることでしょう。このコロナ感染が早く収束し、人々が安心して集える日が来ることを願うばかりです。

 私は、昭和61年4月から平成3年3月までの5年間、そして平成21年4月から平成25年3月までの4年間、計9年間を、北校舎の英語科教員として勤務させていただきました。同じ学校を2回勤務するのはあまりないことです。厚狭高校の皆様とは本当に御縁が深いと思っております。生徒の皆さんだけでなく、同僚の先生方、保護者の皆様など多くの人たちには大変お世話になり、深く感謝しております。

今回、今年度の当番幹事(平成3年卒業生の皆様)から寄稿の依頼があり、当番幹事の皆様の学年は、教員になって初めて3年間担任をした、私にとっては記念すべき学年なので、寄稿させていただくことにしました。

覚束ない記憶を頼りに書きますので、事実とは異なっているかもしれません。ご容赦ください。

【30年前】

 県内で最も長い歴史を持つ学校の一つであることや、南北校舎に分かれていることなど、ほとんど何も知らずに厚狭高校に赴任した私は、当時はまだ20代後半でした。そんなぼんやりした私を、先輩の先生方は大変温かく見守り、フォローしてくださいました。凛とした素敵な女性の先生方も多くおられ、憧れました。初めてのクラス担任も、生徒たちの頑張りと周りの先生方の支えで何とか全う出来ました。

一番思い出深いのは文化祭です。平成元年度(当番幹事2年生)の文化祭で、「大きいものを作ろう!」という私の提案をクラスの皆が受け止めてくれ、折り鶴を使った壁画を作ることになりました。

出来上がるまでは学園ドラマさながらでした。次から次へ難問が噴出。「図案は何にするか」から始まり、鶴は何色を何羽折るのか、何でつなぐか、どこから吊り下げるか、どうやって固定するか等々。しかし、誰かが解決策を考え出したり、先生方からお知恵をいただいたりして解決。2万羽の鶴を折り、テグスでつなぎ、校舎の屋上から吊り下げて垂木で固定し、巨大「金魚」を浮かび上がらせました。文化祭の朝、開始時間ギリギリの完成でした。新聞記事になり、町(当時は厚狭郡山陽町)の広報誌にも取り上げられました。作成過程では自分の都合を優先する生徒もいたりして、人間関係がぎくしゃくする場面も。でも、最後は皆がお互いを認め合い、完成した喜びと達成感を味わいながらジュースで乾杯しました。更に、このクラスは巨大壁画を作っただけでなく、当時大流行していたMr.マリックの超魔術をもじったマジックショーも当日敢行。絶妙なキャラクターのS君がいたおかげでした。大盛況でした。文化祭で2つの出し物をやり遂げたのは、私が担任したクラスの中では、後にも先にもこのクラスだけです。

きっかけを与えたのは担任でしたが、そのあとは生徒だけで話し合い、協力し合ってどんどん物事を進めていきました。私が予想していた以上に生徒は目覚ましい成長をしていったのでした。教室での座学では得られない力を行事を通して生徒たちは身につけていくのだと学びました。3年時はクラスの食品バザーだけでなく、有志でジュースの自販機の紙コップを使って、五重の塔も完成させましたね。ごみ問題を訴えるためでした。バイタリティーがありましたね。

 この文化祭の体験は、その後の私の教員生活の支えとなりました。

 他にもいろんなことが思い出されます。この厚狭高校での5年間は、教員としての私の「青春時代」でした。

【2回目の勤務】

 再び厚狭高校に赴任した時には、新校舎が建設中で、1回目の勤務時より格段に忙しくなっていました。多くの先生方が楽しんでいたテニスの「デベソカップ」もなくなっていました。

一番印象に残っていることは、平成22年の総合家庭科の北校舎移転です。それまで全日制は南北2校舎に分かれていたのが、北校舎に統合されるという厚狭高校の大きな変化に立ち会いました。この統合のため、学校行事の時期や運営方法を見直さなければならなくなり、大変でした。例えば、修学旅行。総合家庭科は染色家の工房見学、普通科は大学見学と別行動を強いられたりしました。文化祭の開催時期を普通科に合わせると総合家庭科は準備が不足するので、学習成果発表会として11月にファッションショーなどが行われました。家

庭科の先生方の細やかな指導とそれに応える生徒たちの熱心さに感動しました。美味しいコース料理もいただきました。

文化祭では、食品バザーで「Areeta!(アリータ)」という店名で唐揚げを売ったり、爪楊枝を使った点描画を作ったりしましたね。部活動は男子ソフトテニス部の担当でした。懐かしいです。個人的なことでは、渡り廊下で転んで左手中指を骨折するということもありました(人生初の骨折)。

【近況】

去年の誕生日に60歳となり、今春、定年退職しました。教職からは離れ、今は家事をするだけの毎日です。新型コロナウイルス感染拡大に伴い外出を自粛するように言われましたが、緊急事態宣言解除後も基本的にはずっと巣ごもり生活を続けています。そんな中、家庭菜園を始めました。キュウリやミニトマト、インゲン豆など、少しばかり植えています。初心者なのでうろたえることばかりです。雑草は野菜が見えなくなるほど生い茂り、虫は野菜につき放題。変色した葉もあり、病気にもかかっているみたい(涙)。わずかばかりの実はカラスと収穫を争う有様。今のところ連戦連敗、カラスに食べられてばかりです(泣)。しかし、こちらが期待するような大きさや数でなくとも、芽を出し、時期がきたら花を咲かせ実をつける野菜の逞しさや健気さに励まされています。何より、自分が育てたものを収穫し食べることの喜びは格別です。雑草や虫のいる中で過ごす時間は、教員として働いていた時とは全く異なる速さで過ぎ、のんびりと過ごしています。

 長く教員をしている間に、親子二代を教えるという御縁もありました。(三組ありました。いずれも、当番幹事の学年の「母と娘」)感慨深いものがあり、お子さんの方を教えている時は、恥ずかしいような申し訳ないような気持ちがしていました。

厚狭高校で勤務した9年間は、私の力不足のために迷惑をかけたことも多かったと思います。本当に多くの方々のお陰で何とか無事に過ごせたと深く感謝しています。有難うございました。

最後になりましたが、当番幹事の皆様に感謝し、併せて厚狭高等学校及び同窓会の皆様のますますのご発展を祈念いたします。

藤村 馨 先生

藤村 馨(1978~1997在籍)  1978に厚狭高校北校舎へ赴任。進路指導が専門である私の公務分掌が保健体育部でしたので驚きました。実は、前年度に「心身の健康の増進」のテーマで山口県教育委員会から研究指定を受け研究発表をする年でした。保健体育の授業の研究、業間体操の発明と実践、サアキットコースの設置、ロングホームルームで使う「心身の健康の推進」の教案の作成と研究授業の実施等。藤井、浜岡先生を推進役にして頑張りました.

  1979年夏の甲子園大会出場への山口県予選リーグで、M投手や永田京介(卒業後に長年にわたりコーチ・監督を担い 高野連表彰受賞)の活躍でベストフォーに進んだ。そときの校長森永諭吉氏が甲子園に出場するための募金活動の準備をするよう指示を出しました。

 1989~1990の2カ年つまり、今年度の同窓会総会の当番幹事達の在学中に、文部省から「普通科での勤労体験学習のやり方」の研究指定を受けました。

年度初めの職員会議の冒頭に、赴任したばかりのS校長から研究指定を受諾したのでよろしくお願いしますで、北校舎の教員はみなびっくりでした。

上級学校への進学を目指す生徒たちの学力の向上の妨げにならないような勤労体験学習の在り方を念頭に、夏休み前までに研究のレジメを作成しました。

あらたに分掌を作らずに、既存のもので担当することにしました。教務部は放課後30分、校内清掃と同時に植樹地の開墾と緑化作業…1980に伐採された門前の老松の代わりに欅を、校舎の前庭と運動場周辺にツツジやサツキを植えました。進路部は土曜日の放課後に徒歩で学校林の整備。生徒部は生徒の自主自律の精神を醸成する意味で、ボランティア活動でできることを考えました。生徒会会長のT君と環境美化委員会の委員長M君(現市会議員)の尽力のお陰で、「生徒・教員が日頃お世話になっている地域社会に恩返しをする」ことを目的として、「クリーンキャンペーン」を土曜日の放課後に行うことを決めました。「クリキャン」を合言葉に通学路およびJR厚狭駅駐輪場,物見山周辺,校内マラソンコース、河川海岸清掃大会等へ39~174の生徒が自発的に参加してくれました。1990年には、厚狭郡山陽町の第6回環境衛生大会にて表彰を受け、「地域社会との連携を求めての地域クリーンキャンペーン」をテーマに体験発表を行いました。君たち生徒の協力のお陰で、普通科高等学校での勤労体験学習のやり方についての研究収録を完成し文部省と山口県教育委員へ提出することができました。それ以来,30年経過した2020年の今、高校時代に勤労体験学習で習得したものが、はたして君たちが人生を送るうえで,少しでも役立ったことがあったか否かを是非とも知りたいです。「教育は百年の計」を確認してみたいからです。

 私は、1934年9月生まれで85歳です。教員生活38年、北校舎在籍20年、長期海外研修3回と忌引き以外に授業に穴をあけたことは1日もありませんでした。ちなみに、1979年米国から成田へ、夜行列車で朝、厚狭駅へ、重い旅行鞄を抱えて出校し授業を行いました。丈夫な体に生んでくれた両親に感謝しています。

 目下、心身のフレイル化を予防するために、以下のようなことをやっています。

火・木・土 8:30~10:30グランドゴルフを梶返天満宮の境内で18人の仲間と,水 12:30~14:30 シルバーコーラスきらめき会75人とコーラスを、今年は新型コロナウィルス対策で7月8日のスタートとなりました。従って例年の発表会は中止になりました。昨年は宇部市芸術祭市民音楽祭合唱部門 渡辺翁記念会館で「パプリカ」「麦の唄」混声4部を暗譜で発表しました。暗譜は脳の老化防止に役立ちます。最後に、昨年9月に始まった「宇部市はつらつ健幸ポイント」に参加しています。がん検診等の受診ポイント、健康教室への参加ポイント、毎日の歩数ポイント等で7月10日までに7994ポイント(1ポイント1円)を獲得しています。正に、「継続は力なり」であると思います。

尾崎泰彦 先生

尾崎泰彦先生

皆さん、ご無沙汰しております。お元気ですか。

この度は、同窓会総会についてのご連絡ありがとうございました。当番幹事の方におかれましては、これまでの準備大変だったと思います。ご苦労様でした。来年度に、懇親会でお会いできることを楽しみにしております。

私は、昭和62年4月から、平成4年3月までの5年間、厚狭高校に勤務していました。大学を卒業して、初めて勤務した高校であり、当時は20歳台でしたが、早いもので、あと数年で定年です。楽しいことや、失敗したことなど、当時の事はよく覚えています。皆さんの名前も、ほとんど覚えています。今では、生徒の名前がなかなか覚えられないのに、不思議です。

私が担任した皆さんは、48歳になったようで、様々な職種で、ご活躍のことと思います。そんな、皆さんに、おこがましいのですが、私がいつも思っていることを記載します。

実社会で生き抜いていくために、私が一番必要だと思うもの、・・・それは「一生懸命やろうとする気持ち」です。今できることに全力を尽くす。必ず自分の力になります。いい加減にやっていれば、自分の身につきません。一生懸命は、周囲の人たちに必ず伝わります。そして、この人には、見込みがあると思ってもらえます。応援してくれます。一生懸命には、相手の心を動かす力があります。

どんなに頑張ってもうまくいかず大きな壁にぶつかり、思い通りにならないことも多々あるでしょう。

一息ついた時、立ち止まった時、困難にぶつかった時、・・・。そんなときは、母校に、ふるさとに思いを寄せて下さい。校舎やグラウンド、友人との語らい、周りの人々のあたたかさ。母校は、そしてふるさとはいつまでも皆さんをあたたかく見守り続けてくれることでしょう。

新型コロナウイルスが収束した際には、またお会いしたいと思っています。お体にくれぐれもお気をつけください。